NOMAD
愛媛大学農学部食料生産学科所属3回生。
ホモ・サピエンスのうちモンゴロイドに分類されるオスの個体の一つ。
経歴
- 2004年:滋賀県栗東市に誕生。
- 小学校:3年生まで滋賀県で学ぶ、問題児であったとされる。
4年生から愛媛県松山市に移住、問題児具合が改善され、かろうじてまともに。
- 中学校:コンピューターに興味を持ち、現在使用しているPCの原型を自作。
自作PCの布教活動を繰り返す。サバゲーマーになる。
- 高等学校:愛媛大学附属高等学校に進学、Unityに触れてFPSゲームを作成。
自分のPCをMinecraftのサーバーにする。銃器愛好家になって動作メカニズムなどについて勉強する。
趣味
コンピュータゲームなど
- Escape From Tarkov
- Besiege
- Minecraft
- War Thunder
サバゲー
AK-47にドーブテイルマウントを接着してPSOタイプスコープを装備したライフルを使用。
ゲーム
- SheepSimulator
高校の文化祭用に一週間で作ったゲーム。高校を舞台、飼育している羊をプレイヤーとして、マシンガンで生徒を薙ぎ払いながら高校を脱出するFPSゲーム。
* SheepSimulatorOnline SheepSimulatorのCOOPバージョン。ホストが難易度などを自由に設定可能であり、手ごたえのあるプレイを求めていくことができる。 "Mirror"を利用した通信で、COOPでは十分なくらいラグが少ない。 * ZUNDALKER 学際に出したずんだステルスFPS。難易度に問題があり、ステージ2が鬼畜すぎるため精神に異常をきたす。
- OPERATION RADIOACTIVE
学祭ゲー➁ HDRPで作ったらクッソ重くなったのでデスクトップ必須ゲーと化した、STALKER系のFPSゲーム。没にしたゲームの再利用だったりする。
- AI Scream Heist (共同制作)
人の分まで仕事を吸って作ったゲーム。Unity1Week参加。
(制作次第追加)
- Murkey Desert
製作中 Coop-FPS
透き通った世界観で送る少年兵、地域紛争、石油利権、特別軍事作戦ゲーム。
- ニギリ回転!スシブレード!(没)
知る人ぞ知る寿司ブレードを適当に再現した対戦ゲーム。
スシを回せ、もっと回せ!左回転ハンバーグ(未実装)やサルモン(未実装)を橋でつかみ、湯のみで叩いてへいらっしゃい!! 闇寿司(未実装)の陰謀に挑むもよし。寿司を収容する(開発中止要素)も良し。 寿司ブレードの世界(開発中止)は広がっているぞ!
- カードキャプターさくら ニュークリア☢カード編 (没)
数日掛けてクロウカード偏とさくらカード編を一気見して思いついたゲーム。
キューバ危機が全面核戦争につながった世界で、放射能汚染されたクロウカードの暴走を抑えるさくらと小狼。 そして黒い雨の降る友枝町にて、子供たちの願いのために米ソは奇跡の同盟を果たす。少年少女の願いと世界平和と、汚れた国家の物語。 アセット利用し過ぎてバグが修正不可能に => Operation Radioactiveに再利用。
大学でやりたいこと
Unityを用いたプログラミング技術を向上させ、3Dアニメーションの導入とラグの少ないオンライン化を行う。~
ソフトウェアだけでなくハードウェア制作を行う。
*共産党宣言 第1章 ブルジョアジーとプロレタリアート[#kac57ebe]
すべての社会の歴史は、階級闘争の歴史である。
自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、ギルド(同業組合)の親方と職工、一言で言えば、抑圧者と被抑圧者は、常に互いに対立し、時には隠れて、時には公然と戦いを続けてきた。
あらゆる時代において、社会はさまざまな階級に複雑に分かれていた。古代ローマでは、貴族、騎士、平民、奴隷、中世では、封建領主、家臣、ギルド主人、職工、見習い、農奴、これらの階級のほとんどすべてで、下には下の階級があった。
封建社会の荒廃をもって生まれた現代のブルジョア社会も、階級対立をなくしたわけではない。従来の階級に代わって、新しい階級、新しい抑圧条件、新しい闘争形態が確立されたのだ。しかし、ブルジョアの時代であるわれわれの時代には、次のような特徴がある。社会は全体として、ますます二つの大きな敵対陣営、つまり、直接対決する二つの大きな階級に分裂している。ブルジョアジー(資本家)とプロレタリアート(労働者)である。
中世の農奴から、初期の町の傭兵が生まれた。これらの町民から、ブルジョアの最初の要素が生まれた。
アメリカ大陸の発見、喜望岬の一周は、台頭するブルジョアジーに新たな大地を開いた。東インドと中国の市場、アメリカの植民地化、植民地との貿易、交換手段と商品全般の増大は、商業、航海術、工業にかつてない原動力を与え、それによって、揺れ動く封建社会の革命的要素が急速な発展を遂げた。
手工業生産が閉鎖的なギルド(同業組合)によって独占されていた従来の封建的な工業制度は、市場で急速に増大する需要をまかなうことができなかった。そして、工場制手工業がそれに取って代わった。ギルドの支配者たちは工場制手工業の中産階級に押され、力を失った。
その間にも市場は拡大し続け、需要は高まり続けた。工場制手工業でさえ、もはや十分ではなかった。そこで、蒸気と機械が工業生産に革命をもたらした。工場制手工業の地位は、巨大で近代的な機械工業に奪われ、工業中産階級、工業億万長者、工業全体のリーダーである近代ブルジョアジーにその座を奪われた。
アメリカの発見によって、近代産業は世界市場への広大な道を確立した。この市場は、商業、航海、陸上通信に巨大な発展をもたらした。そして、工業、商業、航海、鉄道が発展するのに比例して、ブルジョワジーも発展し、資本を増大させ、中世から受け継がれてきたあらゆる階級を後景に押しやった。
こうして見てくると、現代のブルジョアジーが、いかに長い発展の過程を経た、生産様式と交換様式における一連の革命の産物であるかがわかる。
ブルジョアジーの発展の各段階には、それに対応する階級の政治的進歩が伴っていた。封建貴族の支配下にあった被抑圧階級は、中世のコミューンにおいて武装し、自治を行うようになった。被抑圧階級には、イタリアやドイツにあったような独立した共和的団体、フランスにあったような王政の課税対象としての「第三身分」、その後、工業の時代には、貴族に対する対抗手段として半封建王政や絶対王政のいずれかに仕えた階級などがある。さらには、君主制の礎石ともなったブルジョアジーは、近代産業と世界市場の確立以来、ついに、近代代議制国家において、排他的な政治的支配権を封建貴族から奪い取り自らのものとした。近代国家の行政府は、ブルジョアジーの抱える問題への対処を担う委員会にすぎない。
ブルジョアジーは、歴史的に、最も革命的な役割を果たしてきた。
ブルジョアジーは、優位に立つところではどこでも、すべての封建的、家父長制的、牧歌的な関係に終止符を打ってきた。ブルジョアジーは、決まった人間を「生まれながらの上位者」に縛り付けていた封建的慣習を無情にも引き裂き、人間と人間の間に、むき出しの利己心、無慈悲な「金払い」以外の価値を残さなかった。宗教的熱情、騎士道的熱意、博愛主義的センチメンタリズムの天国のような恍惚とした慣習を、エゴイスティックな計算という氷水の中に沈めてしまった。個人の価値を「金があるかないか」に落とし込み、数え切れないほど多くの、そして誰にも譲ることのできない憲章で定められた自由の代わりに、たったひとつの、非良心的な自由「自由売買(Free Trade)」を打ち立てた。一言で言えば搾取であり、修飾するのであれば、宗教的・政治的幻想に覆われた、赤裸々で、恥知らずで、直接的で、残忍な搾取である。
ブルジョアジーは、これまで尊敬され、畏敬の念をもって仰がれてきたあらゆる職業から、その後光をはぎ取った。医師、弁護士、司祭、詩人、科学者を、賃金労働者に変えた。
ブルジョアジーは、家族から感傷的なベールをはぎ取り、家族関係を単なる金銭的な関係に貶めた。
ブルジョアジーは、反動主義者があれほど賞賛する中世における残忍なまでの活力の誇示が、従来の怠惰があったからこそ引き立てられたことを明らかにした。それは、人間が本気になったときに何をなし得るのかを最初に示した。エジプトのピラミッド、ローマの水道橋、ゴシックの大聖堂をはるかにしのぐ驚異を成し遂げ、かつての諸国民の出エジプトや十字軍を日陰に追いやるほどの遠征を行ったのだ。
ブルジョアジーは、生産手段を絶えず革命化し、それによって生産関係、さらには社会関係全体を革命化することなしには存在しえない。逆に、古い生産様式をそのままの形で維持することは、それ以前のすべての産業階級にとって、存在の第一条件であった。生産の絶え間ない革命化、あらゆる社会条件の絶え間ない撹乱、絶え間ない不確実性と動揺は、ブルジョア時代とそれ以前のすべての時代とを区別している。古くからの由緒ある偏見や意見とともに、固定化され、急速に凍結された関係はすべて一掃され、新しく形成されたものはすべて、骨化する前に時代遅れになる。固いものはすべて空気に溶け、神聖なものはすべて冒涜され、人間はついに冷静な感覚をもって、自分の人生の現実の状況や同類との関係に向き合わざるを得なくなる。
ブルジョワジーは、絶えず拡大する市場という製品の必要性から、地球上のあらゆる場所を追い求める。ブルジョアジーは、あらゆる場所に寄り添い、あらゆる場所に定住し、あらゆる場所に関係を築かなければならない。
ブルジョアジーは、世俗的市場の搾取を通じて、あらゆる国の生産と消費にコスモポリタン的性格を与えている。反動主義者たちを大いに落胆させたのは、ブルジョアジーが、工業の足元から、工業の拠って立つ国土を引き離したことである。すべての旧態依然とした国内産業は破壊され、あるいは日々破壊されつつある。新産業は、その導入がすべての文明国にとって死活問題となり、もはや土着の原料を生産するのではなく、最も遠い地域から引き抜かれた原料を生産するようになった。自国の生産物で満たされていた旧来の欲求に代わって、遠く離れた土地や地域の生産物を必要とする新たな欲求が生まれた。旧来の地域的、国家的な隔離と自給自足に代わって、あらゆる方向での交流、国家間の普遍的な相互依存がある。そして、物質的なものと同様に、知的生産においても同様である。個々の国の知的創造物は共有財産となる。国家の一面性や偏狭さはますます不可能になり、多数の国家的・地方的文学から、世俗的文学が生まれる。
ブルジョアジーは、あらゆる生産手段の急速な改良と、非常に容易になった通信手段によって、すべての国々を、たとえ最も野蛮な国々であっても、文明に引き込む。その商品の安い価格は、あらゆる中国の壁を打ち壊す重火器であり、野蛮人の外国人に対する強烈な憎悪を屈服させる重火器である。それは、絶滅の危険を冒してでも、すべての国々にブルジョア的生産様式を採用することを強制し、文明と呼ぶものを自国の中に導入すること、すなわち、ブルジョアそのものになることを強制する。一言で言えば、ブルジョアジーは、自らのイメージ通りの世界を作り上げるのである。
ブルジョアジーは、田舎を町の支配下に置いた。巨大都市を建設し、都市人口を農村人口に比べて大幅に増加させ、人口のかなりの部分を農村生活の愚かさから救った。田舎を町に依存させたように、野蛮国や半蛮国を文明国に依存させ、農民国家をブルジョア国家に、東洋を西洋に依存させた。
ブルジョアジーは、人口、生産手段、財産の散在した状態をますます取り除いている。生産を集積し、財産を少数の手に集中させた。この必然的な帰結が政治的中央集権であった。独立した、あるいはゆるやかにつながった地方は、別々の利益、法律、政府、税制を持ち、一つの政府、一つの法律、一つの国家階級利益、一つの辺境、一つの関税を持つ一つの国家にまとめられた。ブルジョアジーは、そのわずか100年足らずの支配の間に、それまでのすべての世代を合わせたよりも巨大で巨大な生産力を生み出した。自然の力の人間への服従、機械、工業と農業への化学の応用、蒸気航行、鉄道、電信、耕作のための全大陸の開墾、河川の運河化、地面から作り出された全人口-このような生産力が社会的労働の膝の上で眠っていることを、それ以前のどの世紀が予感したであろうか。
ブルジョアジーがその土台の上に築き上げた生産手段と交換手段は、封建社会の中で生み出されたのである。これらの生産手段と交換手段の発達のある段階で、封建社会が生産し交換する条件、農業と製造業の封建的組織、一言で言えば、封建的所有関係は、すでに発達した生産力ともはや適合しなくなった。封建的な所有関係は、すでに発展した生産力とはもはや適合しなくなった。
自由競争は、それに適合した社会的・政治的構造を伴い、ブルジョア階級の経済的・政治的支配を伴って、その場所に現れた。
同じような動きが、私たちの目の前で起こっている。生産、交換、所有の関係を持つ現代のブルジョア社会は、このような巨大な生産手段と交換手段を作り出した社会であり、呪術師が呪文によって呼び出した地下世界の力をもはや制御できないようなものである。過去何十年もの間、工業と商業の歴史は、近代的生産力の近代的生産条件に対する反乱の歴史であり、ブルジョアジーの存在とその支配の条件である所有関係に対する反乱の歴史であった。定期的に再発する商業的危機が、ブルジョア社会全体の存立を、その都度、より脅威的に、試練にさらしていることに言及するだけで十分である。これらの危機においては、既存の生産物だけでなく、以前に創造された生産力の大部分も、周期的に破壊される。このような危機の中で、それ以前のあらゆる時代には不条理と思われたであろう流行病、すなわち過剰生産の流行病が勃発する。社会は突然、一瞬の野蛮状態に逆戻りしてしまう。まるで飢饉や世界的な荒廃戦争によって、あらゆる生活手段の供給が絶たれてしまったかのように見える。文明が発達しすぎ、生活手段が増えすぎ、産業が増えすぎ、商業が増えすぎたからだ。社会が自由に使える生産力は、もはや、ブルジョア財産の条件の発展を促進する傾向がない。それどころか、生産力は、これらの条件に対して強力になりすぎ、そのために、生産力は束縛され、この束縛を克服するやいなや、ブルジョア社会全体に無秩序をもたらし、ブルジョア財産の存在を危険にさらすのである。ブルジョア社会の条件は、彼らによって生み出される富を構成するには狭すぎる。ブルジョアジーは、このような危機をどのように乗り越えるのだろうか?一方では、大量の生産力を強制的に破壊し、他方では、新しい市場を征服し、古い市場をより徹底的に搾取することによってである。つまり、より広範でより破壊的な危機への道を開き、危機を防止する手段を減少させることによってである。
ブルジョアジーが封建主義を地に落とした武器は、今やブルジョアジー自身に向けられている。
しかし、ブルジョアジーは、ブルジョアジー自身に死をもたらす武器を鍛造しただけでなく、その武器を振り回す人間、すなわち、現代の労働者階級、プロレタリアートを存在させた。
ブルジョアジー、すなわち資本主義が発展するのに比例して、現代の労働者階級であるプロレタリアートも発展する。このような労働者は、自らを断片的に売らなければならず、他のあらゆる商業品と同様に商品であり、その結果、あらゆる競争の変動、市場のあらゆる変動にさらされている。
機械の広範な使用と分業のために、プロレタリアートの仕事は、個人的な性格をまったく失い、その結果、労働者にとって魅力もまったくなくなった。彼は機械の付属品となり、彼に要求されるのは、最も単純で、最も単調で、最も容易に習得できるコツだけである。したがって、労働者の生産コストは、ほとんど完全に、労働者の維持と民族の伝播のために必要な生計手段に限定される。しかし、商品の価格、したがって労働の価格は、その生産コストに等しい。したがって、労働の反発力が増大するのに比例して、賃金は減少する。さらに言えば、機械の使用と分業が増大するのに比例して、労働時間の延長、一定時間内に要求される仕事の増大、機械の速度の増大などによって、労働の負担も増大する。
近代産業は、家父長的な主人の小さな仕事場を、産業資本家の巨大な工場に変えた。工場に押し寄せる大量の労働者は、兵士のように組織されている。彼らは産業軍の下士官として、将校や軍曹の完璧なヒエラルキーの指揮下に置かれている。彼らは、ブルジョア階級の奴隷であり、ブルジョア国家の奴隷であるだけでなく、機械によって、傍観者によって、そして何よりも個々のブルジョア製造業者自身によって、日々刻々と奴隷にされているのである。この専制主義が、公然と利得をその目的であり目標であると宣言すればするほど、それはより卑小で、より憎らしく、より苛立たしいものとなる。
肉体労働に含まれる技能や力の発揮が少なくなればなるほど、言い換えれば、近代産業が発達すればするほど、男の労働は女の労働に取って代わられる。労働者階級にとって、年齢や性別の違いは、もはや特別な社会的妥当性を持たない。すべての人が労働の道具であり、年齢や性別によって、使用する費用が多かれ少なかれ高くつくのである。
製造業者による労働者の搾取が一段落し、賃金を現金で受け取るようになるやいなや、地主、商店主、質屋など、ブルジョアジーの他の部分につけこまれる。
中産階級の下層、すなわち、小商人、商店主、一般に引退した商人、手工業者、農民-これらはすべて、徐々にプロレタリアートへと沈んでいくが、その理由の一つは、彼らの矮小な資本が、近代産業が遂行される規模には十分でなく、大資本家との競争に押しつぶされるからであり、また、その理由の一つは、彼らの専門技術が、新しい生産方法によって無価値になるからである。こうして、プロレタリアートは、人口のあらゆる階級から採用される。
プロレタリアートは様々な発展段階を経る。その誕生とともに、ブルジョアジーとの闘争が始まる。この闘争は、最初、個々の労働者たちによって、次に工場の労働者たちによって、次に、ある地方のある商売の労働者たちによって、彼らを直接搾取している個々のブルジョアに対して行われる。彼らの攻撃の矛先は、ブルジョアの生産条件ではなく、生産手段そのものに向けられる。彼らは、自分たちの労働力と競合する輸入品を破壊し、機械を粉々に破壊し、工場を炎上させ、中世の労働者の失われた地位を力ずくで回復しようとする。
この段階では、労働者はまだ全国に散らばった支離滅裂な塊を形成しており、相互競争によって分裂している。ブルジョアジーは、自らの政治的目的を達成するために、プロレタリアート全体を運動させることを余儀なくされ、しかも、一時的には、そうすることができる。したがって、この段階では、プロレタリアートは、自分たちの敵と戦うのではなく、自分たちの敵の敵、絶対王政の残党、地主、非産業ブルジョア、小ブルジョアジーと戦うのである。こうして、歴史運動全体がブルジョアジーの手に集中し、そうして得られた勝利はすべてブルジョアジーの勝利となる。
しかし、工業の発展とともに、プロレタリアートは、数が増えるだけでなく、より大きな大衆に集中し、その力は増大し、その力をより強く感じるようになる。機械が労働のあらゆる区別を消し去り、ほとんどすべての場所で賃金を同じ低い水準に引き下げるのに比例して、プロレタリアートの階級内のさまざまな利益と生活条件は、ますます平等化される。ブルジョア間の競争の激化と、その結果としての商業的危機は、労働者の賃金をますます変動させる。機械の絶え間ない改良は、ますます急速に発展し、労働者の生活をますます不安定にし、個々の労働者と個々のブルジョアとの衝突は、ますます二つの階級間の衝突の性格を帯びるようになる。そこで労働者は、ブルジョアに対抗する組合(労働組合)を結成し、賃金を維持するために団結し、時折起こる反乱に備えるために常設組合を設立する。争議は暴動に発展することもある。
労働者が勝利することもあるが、それは一時的なものである。彼らの戦いの真の成果は、当面の結果ではなく、労働者の結合が絶えず拡大することにある。この結合は、近代産業が生み出した改善された通信手段によって助けられ、異なる地域の労働者が互いに接触するようになった。すべてが同じ性格をもつ数多くの地方闘争を、階級間の一つの全国的闘争に集中させるために必要だったのは、まさにこの接触であった。しかし、あらゆる階級闘争は政治闘争である。そして、中世のプロレタリアートが、みすぼらしい高速道路を使って、何世紀もかけて達成した結合を、現代のプロレタリアートは、鉄道のおかげで、数年で達成することができる。
このプロレタリアートの階級的組織化、ひいては政党的組織化は、労働者自身の間の競争によって絶えず動揺している。しかし、それは、より強く、より強固に、より強大になって、再び立ち上がる。それは、ブルジョアジー自身の分裂を利用することによって、労働者の特定の利益を立法的に認めさせる。こうして、イギリスの10時間労働法案は可決された。
全体として、旧社会の階級間の衝突は、多くの点で、プロレタリアートの発展過程を促進する。ブルジョアジーは、絶え間ない戦いに巻き込まれている。最初は貴族階級と、後には、ブルジョアジーの一部であって、その利害が産業の進歩に拮抗するようになったものと、常に外国のブルジョアジーとである。これらすべての戦いにおいて、ブルジョアジーは、プロレタリアートに訴え、その助けを求め、その結果、プロレタリアートを政治の舞台に引きずり出さざるを得ないと考えている。ブルジョアジー自身は、それゆえ、プロレタリアートに、政治的、一般的教育の手段を提供し、言い換えれば、プロレタリアートに、ブルジョアジーと闘うための武器を提供する。
さらに、すでに見てきたように、支配階級の全部分は、産業の進歩によって、プロレタリアートに引き入れられるか、少なくともその存立条件を脅かされる。これらはまた、啓蒙と進歩の新鮮な要素をプロレタリアートに供給する。
最後に、階級闘争が決定的な時に近づくと、支配階級の内部で、実際、社会の全範囲で進行している解体の過程が、暴力的で、まざまざとした性格を帯びるようになり、支配階級の小部分が、自らを切り離し、未来をその手に握っている階級である革命階級に加わるようになる。それゆえ、以前の時代に、貴族の一部がブルジョアジーに乗り移ったように、現在、ブルジョアジーの一部がプロレタリアートに乗り移り、特に、ブルジョア思想家の一部が、歴史運動を全体として理論的に理解する水準にまで自らを高めている。
今日、ブルジョアジーと向かい合っているすべての階級の中で、プロレタリアートだけが、真に革命的な階級である。プロレタリアートは、その特別で本質的な産物である。下層中産階級、小規模の製造業者、商店主、職人、農民、これらはすべて、中産階級の分派としての存在を消滅から守るために、ブルジョアジーと戦っている。したがって、彼らは革命的ではなく、保守的である。いや、それ以上に、彼らは反動的であり、歴史の歯車を巻き戻そうとするからである。ひょっとして革命的であるとしても、それは、プロレタリアートへの移行が差し迫っていることを考慮してのことであり、彼らは、こうして、現在の利益ではなく、将来の利益を守り、自分たちの立場を捨てて、プロレタリアートの立場に身を置くのである。
危険な階級」、社会のクズ、旧社会の最下層によって投げ出された受動的に腐敗した集団は、あちこちで、プロレタリア革命によって運動にまきこまれるかもしれない。しかし、その生活条件は、反動的陰謀の賄賂の道具の役割を果たすために、はるかに準備されている。
プロレタリアートの条件において、旧社会一般の条件は、すでに事実上、押し流されている。プロレタリアートは財産を持たず、妻と子供との関係は、もはやブルジョアの家族関係と共通するものは何もない。近代的な産業労働、近代的な資本への服従は、イギリスでもフランスでも、アメリカでもドイツでも同じであり、国民性の痕跡をすべて奪ってしまった。彼にとって、法律、道徳、宗教は、多くのブルジョア的偏見であり、その背後には、同じように多くのブルジョア的利害が待ち伏せしている。
優位に立ったすべての先行階級は、社会全体を自分たちの充当条件に従わせることによって、すでに獲得した地位を強化しようとした。プロレタリアートは、彼ら自身の以前の充当様式を廃止し、それによって他のあらゆる以前の充当様式も廃止する以外には、社会の生産力の支配者になることはできない。彼らの使命は、個人の財産のための、それまでのすべての保障を破壊することである。
これまでのすべての歴史的運動は、少数者の運動であり、少数者の利益のための運動であった。プロレタリア運動は、巨大な多数派の利益のための、巨大な多数派の自覚的で独立した運動である。現在の社会の最下層であるプロレタリアートは、公的社会の上位層全体が宙に浮くことなしには、奮起することも、立ち上がることもできない。
プロレタリアートとブルジョアジーとの闘争は、実質的には違うが、形式的には、まず第一に国民的闘争である。もちろん、各国のプロレタリアートは、まず第一に、自国のブルジョアジーと問題を解決しなければならない。
プロレタリアートの発展の最も一般的な段階を描く中で、われわれは、多かれ少なかれベールに包まれた内戦をたどり、その内戦が公然たる革命に発展し、ブルジョアジーの暴力的打倒がプロレタリアートの支配の基礎を築くところまで、既存の社会の中で激化している。
これまで、社会のあらゆる形態は、すでに見たように、抑圧する階級と抑圧される階級の対立に基づいていた。しかし、ある階級を抑圧するためには、その階級が、少なくともその奴隷的存在を継続することができる一定の条件が保証されなければならない。農奴制の時代に農奴がコミューンの一員になったように、封建的絶対主義のくびきの下にあった小ブルジョアもブルジョアに成長することができた。それとは反対に、現代の労働者は、産業の進歩とともに上昇するのではなく、自分の階級の生存条件より深く深く沈んでいく。彼は貧困者となり、貧困主義は人口や富よりも急速に発展する。そしてここで、ブルジョアジーはもはや社会の支配階級になる資格はなく、支配的な法則として自らの生存条件を社会に押しつける資格もないことが明らかになる。なぜなら、ブルジョアジーは、奴隷の奴隷としての存在を保証することができないからであり、奴隷によって養われるのではなく、奴隷によって養わなければならないような状態に、奴隷を沈めざるを得ないからである。社会はもはや、このブルジョアジーのもとでは生きていけない。言い換えれば、ブルジョアジーの存在はもはや社会と両立しない。
ブルジョア階級の存在と支配のための不可欠の条件は、資本の形成と増大であり、資本の条件は賃金労働である。賃金労働は、もっぱら労働者間の競争によって成り立っている。ブルジョアジーが非自発的に推進する工業の進歩は、競争による労働者の孤立を、結合による労働者の革命的結合に置き換える。それゆえ、近代工業の発展は、ブルジョアジーが生産物を生産し充当する基盤そのものを足元から切り崩すのである。したがって、ブルジョアジーが生産するものは、何よりも、彼ら自身の墓掘り人である。ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、等しく不可避である。
*共産党宣言 第2章 プロレタリアートと共産主義者[#kac57ebe]
共産主義者は、プロレタリアート全体とどのような関係にあるのか?
共産主義者は、他の労働者階級の党と対立する別個の党を形成しているのではない。
共産主義者は、プロレタリアート全体から切り離された利害を持たない。
プロレタリアートは、プロレタリア運動を形成し、形成するために、いかなる宗派的原則も打ち立てない。
共産主義者は、他の労働者階級の政党とは、次の点によってのみ区別される。(1)各国のプロレタリアートの民族闘争において、あらゆる国籍とは無関係に、プロレタリアート全体の共通の利益を指摘し、前面に押し出す。(2)ブルジョアジーに対する労働者階級の闘争が通過しなければならない様々な発展段階において、彼らは、常に、どこでも、運動全体の利益を代表する。
それゆえ、共産主義者は、一方では、実際的には、あらゆる国の労働者階級党の最も先進的で断固とした部門であり、他のすべての部門を押し進める部門であり、他方では、理論的には、プロレタリアートの大部分に対して、プロレタリア運動の行程、条件、および最終的な一般的結果を明確に理解する利点を持っている。
共産主義者の当面の目標は、他のすべてのプロレタリア政党と同じである。すなわち、プロレタリアートの階級形成、ブルジョア至上主義の打倒、プロレタリアートによる政治権力の征服である。
共産主義者の理論的結論は、決して、この、あるいは、あの、普遍的改革者となるべき人物によって発明され、あるいは、発見された思想や原理に基づいているのではない。それらは、現存する階級闘争、われわれの眼前で進行している歴史的運動から生じている現実の関係を、一般的な用語で表現しているにすぎない。既存の財産関係の廃止は、共産主義の特徴ではない。
過去におけるすべての財産関係は、歴史的条件の変化に応じて、絶えず歴史的変化にさらされてきた。
例えば、フランス革命は、封建的財産を廃止し、ブルジョア財産を支持した。
共産主義の特徴は、一般的な財産の廃止ではなく、ブルジョア財産の廃止である。しかし、現代のブルジョア的私有財産は、生産物を生産し充当するシステムの最終的かつ最も完全な表現であり、階級対立、少数者による多数の搾取に基づいている。
この意味で、共産主義者の理論は、この一文に要約される: 私有財産の廃止である。
われわれ共産主義者は、人間自身の労働の成果としての財産を個人的に獲得する権利を廃止したいという願望を非難されてきた。この財産は、すべての個人の自由、活動、独立の基礎であると主張されている。
苦労して勝ち取った、自分で獲得した、自分で稼いだ財産である!小職人や小農民の財産のことか。ブルジョア的財産に先立つ財産形態である。それを廃止する必要はない。工業の発展が、すでにかなりの程度それを破壊し、現在も日々破壊している。
それとも、現代のブルジョア的私有財産のことか?
しかし、賃金労働が労働者に財産をもたらすだろうか?少しもない。資本主義、すなわち、賃金労働を搾取する種類の財産を生み出すのであり、それは、新たな搾取のための賃金労働の新たな供給を生むという条件なしには増加しえない。財産は、その現在の形態において、資本と賃金労働の対立主義に基づいている。この拮抗の両面を検証してみよう。
資本家になるということは、生産において、純粋に個人的な地位だけでなく、社会的な地位を持つということである。資本主義は集団的生産物であり、多くの構成員の一致団結した行動によってのみ、いや、最後の手段としては、社会の全構成員の一致団結した行動によってのみ、それを動かすことができる。
したがって、資本主義は個人的なものではなく、社会的な力なのである。
それゆえ、資本主義が共有財産に、社会の全構成員の財産に転換されるとき、個人的財産が社会的財産に転換されるわけではない。変化するのは、財産の社会的性格だけである。それは階級的性格を失うのである。
ここで賃金労働を取り上げてみよう。
賃金労働の平均価格は、最低賃金、すなわち、労働者として裸一貫で存在するために絶対に必要な生計手段の量である。したがって、賃金労働者がその労働によって充当するものは、裸の生存を延長し再生産するのに十分なものにすぎない。われわれは決して、労働生産物の個人的充当を廃止するつもりはない。この充当は、人間生活の維持と再生産のためになされるものであり、他人の労働を命令する余剰を残すものではない。われわれが廃止したいのは、この充当の悲惨な性格だけである。このもとでは、労働者は、単に資本を増大させるために生きているにすぎず、支配階級の利害が必要とする限りにおいてのみ生きることが許されている。
ブルジョア社会では、生きている労働は、蓄積された労働を増大させるための手段にすぎない。共産主義社会では、蓄積された労働は、労働者の存在を広げ、豊かにし、促進するための手段にすぎない。
したがって、ブルジョア社会では、過去が現在を支配し、共産主義社会では、現在が過去を支配する。ブルジョア社会では、資本は独立し、個性を持つが、生活者は依存し、個性を持たない。
そして、この状態を廃止することを、ブルジョアは「個性と自由の廃止」と呼ぶ!そしてそれは正しい。ブルジョア的個性、ブルジョア的自立、ブルジョア的自由の廃止が目指されているのは間違いない。
自由とは、現在のブルジョア的生産条件のもとでは、自由貿易、自由な売り買いを意味する。
しかし、売り買いがなくなれば、自由な売り買いもなくなる。この自由な売り買いの話も、一般的な自由についてのブルジョアジーの他のすべての「勇敢な言葉」も、意味があるとすれば、制限された売り買い、中世の束縛された商人との対比においてのみであり、共産主義的な売り買いの廃止、ブルジョア的生産条件の廃止、ブルジョアジーそのものの廃止と対立するときには、何の意味も持たない。
あなた方は、われわれが私有財産をなくそうとしていることに恐怖を感じている。しかし、あなた方の現存する社会では、人口の10分の9はすでに私有財産をなくしており、少数の人々のために私有財産が存在するのは、その10分の9の人々の手に私有財産が存在しないからにほかならない。それゆえ、あなたは私たちを、財産の形態をなくすつもりだと非難するが、その財産の存在の必要条件は、社会の莫大な大多数にとって財産が存在しないことである。
一言で言えば、あなたは私たちを、あなたの財産をなくすつもりでいると非難しているのだ。まさにその通りであり、それこそが我々の意図するところである。
労働がもはや資本、貨幣、賃借料に、独占可能な社会的権力に転化され得ない瞬間から、すなわち、個人の財産がもはやブルジョア財産、資本に転化され得ない瞬間から、その瞬間から、あなたがたは、個性は消滅すると言うのである。
したがって、「個人」とは、ブルジョア、すなわち中産階級の財産所有者以外の何者でもないことを告白しなければならない。このような人物は、実のところ、道から一掃され、不可能にされなければならない。
共産主義が奪うのは、社会の生産物を収奪する力ではなく、収奪によって他人の労働を服従させる力を奪うだけである。
私有財産が廃止されると、すべての労働がなくなり、普遍的な怠惰がわれわれを襲うことになる、という反論がある。
これによれば、ブルジョア社会は、単なる怠惰によってとっくの昔に犬死しているはずである。なぜなら、ブルジョア社会の構成員のうち、働く者は何も得ず、何かを得る者は働かないからである。この反論はすべて、資本がなくなれば賃金労働もなくなるという同語反復の別の表現にすぎない。
物質的生産物を生産し充当する共産主義的様式に反対するすべての異論は、同じように、知的生産物を生産し充当する共産主義的様式にも反対する。ブルジョアにとって、階級財産の消滅が生産そのものの消滅であるように、階級文化の消滅は、彼にとって、すべての文化の消滅と同一である。
彼が嘆き悲しむその文化は、莫大な大多数にとっては、機械として行動するための訓練にすぎない。
しかし、われわれの意図するブルジョア財産の廃止に、自由、文化、法律などについてのブルジョア的観念の基準を適用する限り、われわれと論争してはならない。諸君らの考え方は、諸君らのブルジョア的生産とブルジョア的所有権の条件から生まれたものに過ぎない。諸君らの法律学が、諸君らの階級の意志を万人のための法律としたものに過ぎないように、諸君らの考え方は、諸君らの階級の経済的存在条件によって、その本質的性格と方向性が決定される意志に過ぎない。
現在の生産様式と所有権の形態に由来する社会的形態、すなわち、生産の進歩の中で生じては消えていく歴史的関係を、自然と理性の永遠の法則に変えるよう、あなた方を駆り立てる利己的な誤解は、あなた方以前のすべての支配階級と共通している。古代の財産の場合にははっきり見えていること、封建的財産の場合には認めていること、もちろん、君たち自身のブルジョア的財産の場合には認めることは禁じられている。
家族の廃止 共産主義者のこの悪名高い提案には、最も急進的な人々でさえも激怒する。
現在の家族、ブルジョア家族は、どのような基盤の上に成り立っているのだろうか?資本主義、私利私欲である。完全に発展した形で、この家族はブルジョアジーの間にのみ存在する。しかし、このような状態は、プロレタリアートの間における家族の実際的な不在と、公娼の中に、その補完を見出す。
ブルジョア家族は、その補完物が消滅すれば、当然のこととして消滅し、資本の消滅とともに両方とも消滅する。
親による子供の搾取をやめさせたいからといって、われわれを非難するのか?この罪は認める。
しかし、家庭教育を社会教育に置き換えるということは、最も神聖な関係を破壊することだと言うだろう。
あなたの教育もそうだ!それもまた社会的なものであり、学校などによる社会の直接的・間接的な介入によって、教育を受ける社会的条件によって決定されるのではないだろうか?共産主義者は、教育への社会の介入を発明したのではない。彼らは、その介入の性格を変え、支配階級の影響から教育を救い出そうとしているのである。
家族と教育について、神聖な親子の関係について、ブルジョア的な戯言は、近代産業の作用によって、プロレタリアートの家族の絆が引き裂かれ、彼らの子供たちが単純な商業品や労働の道具に変質すればするほど、いっそううんざりするようになる。
しかし、あなた方共産主義者は、女の共同体を導入しようとする。
ブルジョワは、妻を単なる生産の道具としか見ていない。彼は、生産の道具が共同で搾取されると聞き、当然のことながら、万人に共通する運命が女にも降りかかるという結論以外には思いつかない。
その真意が、単なる生産の道具としての女の地位をなくすことにあるのだということを、彼は疑いもしない。
それ以外の点では、共産主義者たちによって公然かつ公式に確立されることになっている女たちの共同体に対するブルジョアたちの高潔な憤りほど滑稽なものはない。共産主義者は、女たちの共同体を導入する必要はない。
わがブルジョアは、プロレタリアートの妻や娘を自由に使えることに満足せず、一般の売春婦は言うに及ばず、互いの妻を誘惑することに最大の喜びを感じている。
ブルジョア結婚とは、現実には共同妻の制度であり、したがって、共産主義者が非難される可能性があるのは、せいぜい、偽善的に隠蔽された共同体の代わりに、公然と合法化された女たちの共同体を導入しようと望んでいることぐらいである。それ以外の点については、現在の生産体制の廃止が、その体制に由来する女たちの共同体の廃止、すなわち公娼と私娼の廃止をもたらさなければならないことは自明である。
共産主義者はさらに、国と国籍を廃止しようとしていると非難される。
労働者には国がない。我々は、彼らが持っていないものを彼らから奪うことはできない。プロレタリアートは、まず第一に政治的優位を獲得し、民族の指導的階級となり、それ自身が民族を構成しなければならないのであるから、ブルジョア的な意味においてではないが、これまでのところ、それ自身が民族的なのである。
民族間の相違と対立は、ブルジョアジーの発展、商業の自由、世俗的市場、生産様式とそれに対応する生活条件の統一によって、日々、ますます消滅している。
プロレタリアートの覇権は、それらをさらに速く消滅させるであろう。少なくとも主要文明国の統一行動は、プロレタリアートの解放のための最初の条件の一つである。
ある個人による他の個人の搾取が止められるのに比例して、ある民族による他の民族の搾取も止められるだろう。国家内の階級間の対立が消滅するのに比例して、ある国家が他の国家に敵対することも終わるだろう。
宗教的、哲学的、一般的にはイデオロギー的な見地から共産主義を非難することは、真剣に検討するに値しない。
人間の思想、見解、観念、一言で言えば、人間の意識が、その物質的存在、社会的関係、社会生活の条件の変化ごとに変化することを理解するのに、深い直観が必要だろうか。
物質的生産が変化するのに比例して、知的生産もその性格を変えるということ以外に、思想史が証明することがあろうか。各時代の支配的思想は、常にその支配階級の思想であった。
人々が社会を変革する思想について語るとき、それは、古い社会の中で新しい社会の要素が創造され、古い思想の溶解が古い存在条件の溶解と歩調を合わせているという事実を表現しているにすぎない。
古代世界が最後の苦境にあったとき、古代の宗教はキリスト教に打ち負かされた。18世紀にキリスト教の思想が合理主義の思想に屈したとき、封建社会は当時の革命的ブルジョアジーと死闘を繰り広げた。宗教の自由と良心の自由という考え方は、知識の領域における自由競争の揺らぎを表現したに過ぎない。
「間違いなく、「宗教的、道徳的、哲学的、法学的な考え方は、歴史的発展の過程で修正されてきた。しかし、宗教、道徳哲学、政治学、法律は、常にこの変化を生き延びてきた。
「自由、正義など、社会のすべての状態に共通する永遠の真理がある。しかし、共産主義は、永遠の真理を廃止し、すべての宗教と道徳を廃止し、新しい基礎の上にそれらを構成する代わりに、すべての宗教と道徳を廃止する。
この非難は何を意味するのだろうか?過去のすべての社会の歴史は、階級的対立の発展によって成り立ってきた。
しかし、どのような形であったとしても、一つの事実は過去のすべての時代に共通している。それゆえ、過去の時代の社会意識が、それが示すあらゆる多様性と多様性にもかかわらず、ある共通の形態、すなわち一般的な考えの中で動いていても不思議ではない。
共産主義革命は、伝統的な財産関係との最も根本的な断絶であり、その発展が伝統的な思想との最も根本的な断絶を伴うのも不思議ではない。
しかし、共産主義に対するブルジョア的な反論は終わりにしよう。
労働者階級による革命の第一歩は、民主主義の戦いに勝利するために、プロレタリアートを支配者の地位に引き上げることであることを、上に見てきた。
プロレタリアートは、その政治的優位性を利用して、少しずつ、すべての資本をブルジョアジーから奪い取り、すべての生産手段を国家、すなわち、支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中させ、生産力の総量をできるだけ急速に増大させる。
もちろん、初めのうちは、財産権とブルジョア的生産条件に対する専制的な侵入によってでなければ、これを達成することはできない。したがって、経済的に不十分で、実行不可能に見えるが、運動の過程で、それ自身を凌駕し、古い社会秩序に対する更なる侵入を必要とし、生産様式を完全に革命化する手段として避けられない措置によってである。
これらの措置は、もちろん国によって異なる。
とはいえ、最も進んだ国々では、次のことがかなり一般的に適用できるだろう。
1. 土地の所有権を廃止し、すべての地代を公共目的に充当する。
2. 重い累進課税または段階的所得税
3. すべての相続権を廃止する。
4. すべての移民と反逆者の財産を没収する。
5. 国家の資本と独占的独占権を持つ国立銀行によって、国家の手に信用を一元化する。
6. 通信・輸送手段を国家の手に一元化する。
7. 国が所有する工場や生産手段の拡張、荒地の耕作化、共通の計画に基づく土壌の改良。
8. 労働に対するすべての人の平等な責任 特に農業のために、産業軍隊を設立する。
9. 農業を製造業と結合させる。人口を全国により均等に配分することによって、町と田舎の区別を徐々に撤廃する。
10. 公立学校におけるすべての子供の教育を無償化する。 児童の工場労働を現行の形で廃止する。 教育と工業生産の結合、などなど。
発展の過程で、階級的区別がなくなり、すべての生産が全国民の巨大な連合体の手に集中したとき、公権力はその政治的性格を失うだろう。政治権力とは、正しくは、ある階級が他の階級を抑圧するために組織した権力にすぎない。もし、プロレタリアートが、ブルジョアジーと争っている間に、状況の力によって、階級として自らを組織せざるをえなくなり、革命によって、自らを支配階級とし、そのようなものとして、古い生産条件を力によって一掃するならば、それは、これらの条件とともに、階級対立と階級一般の存在の条件を一掃し、それによって、階級としての自らの優位性を廃したことになる。
階級と階級対立のある古いブルジョア社会に代わって、われわれは、各自の自由な発展がすべての者の自由な発展の条件である連合を持つであろう。
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